⑭西堀日向の歴史の道をたどって ぱーと1

前回のお話の舞台である鎌倉時代、御家人は召集があれば関東各地から「いざ鎌倉」と将軍のもとに馳せ参じることになっていました。各地から鎌倉に向かう道ができ、それぞれに枝道も発達しました。道筋にある地域では、その枝道も含めて鎌倉街道と呼び慣わしてきました。

土合の地域内には鎌倉街道の与野道という枝道が通っています。与野の追分から南下するこの道を散歩しながら歴史を感じるのも楽しいものです。

 

与野道を南下して行った時に土合地区で最初に通るのは西堀の日向地区です。日向は大宮台地の南西にある与野支台と呼ばれる、鴻沼川と荒川に挟まれた高台です。

鎌倉街道の与野道から続く旧道はこの高台の西縁を通ります。この道をたどって行くと中程で宗教施設に当たります。以前は真っ直ぐな道でしたが、今は新たに西へ迂回する道となりました。

 

迂回しながら進み、最初に出会うT字路を曲がって、少し先の駐車場の一画に柊(ひいらぎ)稲荷大明神という、稲荷社があります。社の西は見晴らしが良く、その先が崖になっていることに気付きます。ここには「昔、台地の下が海だったころ、船をつなぐのにヒイラギの杭を逆さに打ったのが成長し大木になった。」という 「逆さ柊(ひいらぎ)伝説」といわれる伝説が伝わっています。神社の西側の急な崖が、いかにも船戸場(船着場)があった場所だったように思わせます。

(『浦和の歴史と文化を知る本』より)

 

古い時代にはこの場所から西に海が見えていたことがあったのでしょう。

「浦和」の地名は、海や湖が陸地に入りこんだ地形を表す 「浦」と穏やかさを表す「和」が合わさって成りました。台地周辺には貝塚や古墳も発見されています。かつてこの辺りは古代人の穏やかな生活の場だったのでしょう。

                                           (いはら)

 

出典:新編武藏風土記稿

 

   浦和の歴史と文化を知る本

 

 

 

⑮西堀日向の歴史の道をたどって ぱーと2

前号に続き、古道与野道を歩きます。柊稲荷から東に少し歩くと不動堂があります。日向不動堂といい、明治4年の廃仏毀釈により廃寺となった長福寺のお堂でしたが、墓地のあるお堂は残りました。長福寺は、現在門前自治会館の建つ隣の墓地にその名が書かれており、寺跡として残っています。

日向不動堂の周辺には多くの伝承や史跡があります。これらの伝承は江戸幕府が文化文政期に編纂した『新編武蔵風土記稿』の西堀村の不動堂の項に書かれています。要約すると、「この辺りに悪鬼がおり住民を苦しめていたのを弘法大師が諸国遍歴の折に、ここを訪れ、嘆くのを憐れんで伝教大師の不動尊を授け、崇敬したお陰で住民は平和を得、尊像を祀り建てたのがこの堂である。それから時が経ち建久の頃、畠山重忠がこの地を拝領し、家臣の真嶋日向守は城を築きここに住み不動尊を守り本尊として崇敬した。故にこの地は今も日向不動と號している。」となります。

伝承には、真言宗の祖である弘法大師(空海)と天台宗の祖である伝教大師(最澄)が同時に現れています。私見ですが、平安時代(794~)に弘法大師の教えを布教する高野聖が関東行脚の折、ここに立ち寄ったと考えています。弘法大師が来たという伝説は田島の薬王院、与野の二度栗山にも同様に残っています。そして伝教大師についても、弘仁5年(814)最澄の東国巡錫(とうごくじゅんよう)で、天台の教えを布教する僧侶がいたのだと考えます。そのようなことから、両宗が混ざり合ったかたちで、苦労していた村人の心を鎮めたということに繋がるのでは、と思うのです。

また、遺跡・真鳥日向守城跡の項には「この城跡を真鳥山と呼ぶ。廻に堀をかまえた跡がある。傍に祠あり真鳥稲荷と号す。是は日向守が霊を祀った為という。享保年中に鴻沼新開のとき当所の土を掘ったが、中から錆朽ちた鎧刀等、或は鉄砲の玉などが出たという。」とあります。

ここに登場する、畠山重忠の家臣の真鳥日向守が生きた時代は鎌倉時代。西暦1100年代です。鉄砲が種子島に伝わった時代の約400年前です。また、日向で合戦があったという伝承もないようです。享保年間(1716~)に出土した「錆朽ちた鎧刀等、或いは鉄砲の玉など」の記述は、科学的な時代考証が無かった頃のことですので、仮説としては齟齬(そご)があるようにも思えます。

日向不動堂は「足立百不動」という巡礼道の寺でもあります。さいたま市、川口市、戸田市、蕨市の寺を巡る道でしたが、今は多くが廃寺になっています。安政5年(1858)に再版された『巡拝記』によると「29里15丁半」、全長約115.5kmの道のりでした。日向不動堂の御開扉は今も12年に1度の酉年に行われています。さて、不動堂の境内には大きな石が2つあります。石にはそれぞれ「不 六斗七升 日向」(米換算で約100kg)、「八斗 不動王」(約120kg)と彫られています。これは力石です。力石は、持ち上げて力試しに用いられました。江戸から明治期には鍛錬や娯楽のために盛んに行われていたそうです。人が集まるご縁日などで日ごろの成果を見せる力比べでもしたのかな…お堂の軒先の力石を見ながら楽しい想像ができます。

次は、この高台を更に南下して行きます。                      (いはら)