土合の庚申塔探訪記


「土合地区社会福祉協議会 つちあい ふれあい たすけあい」の広報紙に掲載した『土合あれこれ』で書きました土合地区北周辺の石塔石仏探訪をお話しします。他にもまだ存在すると思いますが、一旦UPします。

土合邑 井原 進

 

庚申塔をいざ探すとなると耕地整理等で街道が消え、また旧家も移転していることが多く難儀でした。地元生れの知人に聞いたりしながら探し始めると、新道に紛れて手つかずに近い旧道の面影を発見することもあり、また楽しい探訪でした。調べた地域は社協事務所(土合支所2階)の北方向のみで、西堀、日向、南元宿、栄和、道場、町谷等で田島地区や新開地区は探訪していません。また機会があれば挑戦します。

 


西堀~1

 土合社協事務所は土合支所の2階ですが、同敷地に建つ土合公民館の東北角の丁字路の石塔は「巳待塔・甲子塔・庚申塔・馬頭観世音菩薩」と四面に彫られ「よの西堀村中」と文化九壬申(みずのえさる1812年)の建立年号、世話人9名が彫られています

 この碑文には幾つか疑問があります。「よの西堀村中」の「中」は地名の小字か、村の講中「中」の意味でしょうか、そして「よの西堀」は「よの領」か、あるいは「新編武蔵風土記塙に載る「與野郷」でしょうか。ここには「西堀」という意味、地名の変革、碑は何処に建っていたのか旧道の姿など、色々と調べたいことが出てきます。

 また他の碑はひとつの講名が彫られるのが多く、講が四つあったと推定されますが、四面に彫られたものは他では見られません。そして世話人に連なる名字は西堀氷川神社の南に位置する旧家だけで日向地域の名字はありません。同じ西堀村であっても北の日向とは生活圏(村付合い)が違っていた姿が見えてきます。このようにひとつの碑を掘り下げると、疑問が連なりまた新しい推理の出発点が見えてきます。 

 


西堀~2

 中浦和から浦和工業高校へ向かう最初のT字路、行きかう車の騒音に埋まるようにその角にひっそりと建つ4基の石碑があります。

 元々ここに鎮座していたのではなくここに纏められたような佇まいですが、皆、表現が違います。年代の古い順に並べると、

 

① 延寶三年乙卯(きのとう1675年)碑銘は『奉造立庚申供養所』

 

② 天和三癸亥(みずのとい1683年)碑銘は『奉造立庚申為二世安楽也』、これには道標が書かれており街道にあったと思われます。「南 わらひ・江戸道」。①と②は年代が近いのと奉造者は似た苗字の為同族と思われます。碑銘は『奉造立庚申供養所』『奉造立庚申為二世安楽也』であり、二世安楽(この世とあの世)の為に供養したと読めます。 また古い碑①の形について、機会があれば調べに報告します・・・

 

この時代(延寶三(1675)年・天和三(1683)年)をもう少し掘り下げてみますと、

 

天正18(1590)年、家康が関東に移封され関ヶ原の戦いののち慶長8 (1603) 年征夷大将軍となり、江戸幕府を創設し、1603年~1868年(265年間)江戸時代は続きました。

15基のうち一番古い道標が彫られた②天和三癸亥(1683)年にあった出来事を追ってみますと・・・

~1 八百屋お七。江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし天和三年3月(1683)火刑に処された。墓は江戸  観音11番札所として知られる文京区白山の円乗寺に葬られています。

~2 天和元年(1681)-四年(1684)、間もなく花の元禄1688-1704に入る少し前。犬公方と云われた5代将軍徳川綱吉。

~3 古道、中山道の歴史:江戸幕府は慶長6年(1601)から7年間で他の五街道とともに中山道を整備した。中山道は、山間部を通る険しい道ですが東海道の川止めの不安が少ないので「女性は中山道を通ることが多い」という事から姫街道とも呼ばれ、幕末、文久元年(1861年10月20日)に皇女和宮は中山道を通り徳川家へ降嫁しています。

~4 参勤交代 寛永12年(1635年)徳川家3代目将軍徳川家光が『武家諸法度』を改定により制度化。往復や江戸屋敷の経費は大名財政を圧迫したが、交通の発達や文化の全国的な交流をうながすなど各方面に影響を与えた。

~5  江戸を開闢した徳川の歴史。

その出自は賀茂氏とも,在原氏ともいい,明白でない。三河国松平郷に住み松平氏を称した。信重のとき,嗣子がないので,娘を新田氏の子孫と称する世良田 (せらだ) 親氏に配して松平氏を継がせた。戦国時代,清康のとき強大な勢力となった。広忠を経て家康の初期は今川氏に属したが,永禄3 (1560) 年桶狭間の戦い後,織田氏に属し,同9年徳川氏と改称した。織田信長の死後,豊臣秀吉と和し,天正 18 (90) 年関東に移封された。関ヶ原の戦いののち慶長8 (1603) 年征夷大将軍となり,江戸幕府を創設した。

以来 15代 265年の間,子孫が将軍職を継承,武門の棟梁として継続した。将軍家のほか,徳川氏を称したのは,尾張,紀伊,水戸のいわゆる御三家と,田安,一橋,清水のいわゆる御三卿である。その他,徳川氏の庶流ならびに支族は松平氏を称した。なお,外様大名でも,松平氏の称呼を授けられたものがある。明治になって,将軍家は公爵,御三家は侯爵,御三卿は伯爵となった。

 

③ 文化四丁卯(ひのとう)八月吉日(1807年)碑銘は『念仏女講中』、道標が書かれ、「西 はねくら・川こえみち・北 よの・あきば道」。

 

④ これは青石塔婆と思われます。上の部分は欠けており石材が柔らかい緑泥岩の為、風化と剥離でほとんど判読不能です。上に仏花に乗った種子らしき線書きが対でうっすら残っており対という事は、上の割れた部分には本尊の種子があるはずで、その下の辛うじて読める文字は戒名かと思います。

 庚申塔などの石碑というより墓標の可能性があります。この板碑は供養に建てることが多く阿弥陀如来の種子や戒名が彫られます。この秩父青石(緑泥岩)と思われる碑の造立は鎌倉~室町時代にまで遡り、江戸時代のものは見当たりません。仮に寺にあった場合、年代が読めればその寺の発祥が見えるかもしれません。私の知る青石の残欠に「正中2年」と彫られたものを見たことがあります。鎌倉時代末の西暦1325年、その寺の存在は確認されている古い墓石の江戸期から一気に300年遡ったことになりました。もし、寺か墓地で青石塔婆らしきものを見つけて、年号の確認が出来ましたら時代の遡りの大発見になりますね。そんな探索も楽しいかもしれません。

 

 


西堀~3

 少し分かり難いですが西堀中地区、鴻沼川の平街道から北側の路を川沿いに東へ入り、2本目の北へ向かう道、入口は15mほど未舗装でまた30m行くと十字路になります。この北東角に車庫があり車庫に張り付くように目的の庚申塔の祠があります。この祠に続く畑は鉄線で囲われ民地故うっかり入れません。石仏は土地の所有者さんでしょうか、お姿の部分が金の塗料で素人塗されていました。


西堀~4

 西堀中のルブソアールというマンション角にブロックで囲まれた将棋型の庚申塔があります。日輪月輪が彫られ、『奉建立庚申講成就・延享元甲子(1744)願主・・・・講中 田・・・九人(判読不明)』の文字。マンションの所有者が移築されたようです。


西堀~5

 日向の石塔は地元有志が石造文化財保存会を立上げ寄付を募り、祠というより覆い屋根で保護されています。そこには宝暦七丁丑(ひのとうし1757年)の庚申塔、馬頭観音像と二十三夜塔が4基まとめられ説明文をつけて管理をされています。明治13年国土地理院の古図を示して説明し、大きい石塔には「よの・はやそ・とうまん・わらひ・江戸道」と彫られ、置かれた場所は鎌倉街道であったことが分かり主要な道の姿が浮かんできました。建立名は當村講中とありました。保存会では民間信仰の祈りの石塔としてよりも、歴史価値として評価しています。


道場~1

 道場南西境の追分に鎮座する庚申塔は青面金剛の姿と元禄五壬申(みずのえさる)1692年と彫られています。同地には馬頭観音3体も置かれ祠には鈴と講中の紅白綱が下げられ地元の人が守護しているようでした。この石仏は他にはない戒名が彫られ亡き方の供養塔でもあったようです。道場の石仏は新開街道が村の南に接する場所で、南の新開から来た旅人は道場を抜け北の羽倉の渡しへ、大久保村に向かうか鎌倉街道の上道と中道をつなぐ羽倉道に辿りつくかになります。この庚申塔から東へ向かうと町谷の庚申塔に着き、そこに彫られた道標から「うら和、わらび、よの」とそれぞれの方向が分かります。

 またこの碑から南下すると荒川を西にして秋ヶ瀬の渡し、道満から戸田の早瀬へ向かうことになります。

 


道場~2

 道場にはもう一体の庚申塔があります。道場西の六間道路が西(秋が瀬方向)と北(羽倉方向)に別れる北の路を60mほど行った東側の道路に面して古い祠が生垣に囲まれ守られるような庚申塔。2017年には生垣がすっかり取り払われ分譲に造成されるのか住宅用の道路工事が始まっていました。庚申様はどこか移転されるのでしょうか。


中島~1

 新大宮バイパスの中島歩道橋東側に中島3丁目12の住居表示が貼られたブロック塀囲まれ、しっかりした祠に守られた庚申塔は、享和元辛酉(かのと1801年)「女人講中世話人名3名」そして「足立郡与野領中島村」が刻まれています。で?は「与野領中島村」と記されていますが、「与野領」と記されるのは明治39年の地図で土合村與野領町谷とあるだけで、與野郷ではかなったかとこの表記は新発見です。


中島~2

 バイパスの西、中島の萬行寺入口の左に石仏7体が並んでいました。馬頭観音の石塔3体、1体が文政5壬午(みずのえうま1822年)。座像の石仏4体は傷みひどく剥離もあり○観音○講中、文政3庚辰(かのえたつ1820年)文政9丙戌(ひのえいぬ1826年)と辛うじて読めました。


中島~3

 中島萬行寺の境内に中島の民家から移されたという庚申塔があります。田畑が時代の流れで宅地に変えられ、土地の片隅で村を見守り家を守ってくれた祠が邪魔になり最後を迎えたことになります。しかし、そのまま御霊抜されて片づけられたのではなく、菩提寺の境内に安置されたのであれば200年以上前の先人の想いが消されることなく続くのではと感じます。建立は文化2乙丑・(1805)のもので、正面に「庚申塔」とのみ書かれ背丈40㎝と小さな塔です。

 

 

(追記): 寺院について、明治10年西蓮寺村と千駄村が合併し栄和となりましたが、西蓮寺村には足立百不動53番蓮乗寺があり、萬行寺は千駄村だったかを調べて「新編武蔵風土記稿」には「中島村別當萬行寺。千駄村神明社二宇、一は重圓寺持村の鎮守なり、一は村民の持なり」。結果、一村一寺として千駄村は重圓寺で、中島の寺は萬行寺と判明しました。

 そこで、昭和22年の航空図から、萬行寺と重圓寺の場所特定をしてみました。多くの住宅その他が建つ前、中島は東が日向の山に接している以外、中島の名の通り3方向は田圃で囲われ、田圃の中の農道が他の地区と繋がっている村でした。

 

 「新編武蔵風土記稿」に中島田圃を特筆する古文があります。

『富士見塚 日向にあり、古城跡の続きなる断崖の上なるここより西に眺めは富士 及び箱根 大山 榛名 又 御嶽 武甲山等目前に眺望いと勝れたり、眼下には水田打ち続きたり、土人の話に 秋冬の頃 天気極めて快晴なる時は 富嶽 宛然としてこの水面にうつれり 充(アテ) たま々地形よりて 向にある物の影うつることあれと 悉(コトゴト)く逆に写るな常とすれど ここは左にあらす 直ちに水庭にあるが如くに見よるといえり』

 

※これは日向の塚(古墳、あるいは日向の不動堂あたりか)から西方向を望む水が張られた田圃を詠んだものです。

 中島の地続きの萬行寺と千駄村の重圓寺との距離を測ると約350mあり、住宅街になっているところは田圃だったことになり、新大宮バイパスの計画が具体的になった昭和35年頃から平成まで30年を経ずして、のどかだった田圃は消え民家が増え飛躍的な発展を遂げたことが分かります。

 


栄和~1

 栄和幼稚園の南T字路の突き当りに赤屋根の庚申塔を祀る祠があり、ここは栄和になる前の西蓮寺村だったところです。2基鎮座しておりそれぞれに『奉造庚申供養為二世安徳也』「庚申塔」と彫られ、また「南 はやせ」「西 は弥くら」「足立郡与野領西蓮寺村」と昔を知る貴重な文言が彫られています。ここには現在でも60名の講元 世話人 講員を擁する『栄和下庚申講』が続いている額が掲げられています。


栄和~2

 栄和にはもうひとつの講があります。享保5年庚子(かのえね1720年)建立の庚申塔で、平成13年付の寄進額と、平成19年11月付、講元 世話人 講員 総勢23名の「栄和第二庚申講」が存在しています。建立時から講が続いているとすれば300年の歴史となります。


付録:千駄村 重圓寺

 (新編武蔵風土記稿より)

重圓寺 新義眞言宗、與野町圓乗院の末、薬王山と號す、本尊薬師を安じ、傍に運慶が作れる如意輪観音を安ず、開山宥正嘉暦三年(1328年)に寂。大師堂。天神社。

 

(重圓寺・さいたま市教育委員会掲示より)

庚申塔とは、江戸時代に庚申信仰を信仰する個人や、信仰者の集まりである庚申講の人々が建てた塔です。六十日に一度やってくる「庚申」の日に、人間の胎内にいるという三尸という虫が、天帝に罪を告げに行かないように、寝ずにすごして長寿を願った記念に建立したものです。

この庚申塔は、高さ百五十五センチメートルの笠付の角柱の庚申塔です。塔身の正面をくぼませ、その上部に猿一匹を半肉彫りとし、その下に「奉造立庚申供養」「寛文九己酉天七月吉日」(1669年)と刻み、山口市郎兵衛他十二名の講中名も彫っています。また、左右の側面には蓮華が陽刻されています。

市内における初期庚申等の一つとして貴重であり、また、合掌した一猿を主尊のように扱う庚申塔は、県内唯一の例です。庚申塔が一般化する以前の過渡期に造立されたものとして、その特殊な形態は庚申塔や庚申信仰の発達を知る上で注目すべきものです。

 


南元宿~1

 土合小学校南の道路西角にある庚申塔は文化13丙子(ひのえね1816年)と彫られ、道標として「東 わらびみち 南 どうまんみち 西 は祢くら」當村講中とあり、村の南西にあったことが分かります。また土地の人が祠を建て風雨から庚申塔を守っています。ここの庚申塔は200年の時の流れに風化してしまったようで復元された石仏がお前立として建てられています。今、傷んでしまった先人の祈りを再現する優しい心で後世に残そうとする敬虔さに民間信仰まだ根付いていると感じ嬉しくなってしまいます。

別格の碑

南元宿に忘れられたような道標があります。図のように半分以上割られ見る影もありません。道路工事か駐車場造成の折、工事で雑に扱われている時土地の所有者さんが慌てて止めに入りここに埋めたたのだろう佇まいです。車道と駐車場の脇に立っていますのでいつ倒されるか、通るたびに気にしていますが、近くの電柱が守っているようです。

思わせブリな前置きですが七文字だけがはっきり読めます。『百不動四丁四勺』他にかなりの情報が彫られていますが割れて判断不能です。

路は道場⇔町谷⇔南元宿を通る、地元の人が言う通称『中道』という古道です。これは数年前ご開帳のあった足立百不動の巡礼路の道標なのです。

何気に見て飛び上がるほどうれしくなってしまいました。江戸時代の足立百不動は、巡礼路に石の案内板が造られるほど賑やかだったのだという証明です。この百不動の道標があるという事は他にも残っているかも、また新しい路が目の前に出てきました。そしてこの石碑も庚申塔だったのか、そんな想いもしています。


町谷~1

 町谷の庚申塔は土地の所有者さんが廃棄する処へたまたま出逢った人が急きょ引き取った経緯があります。

万延元(1860年)の建立で、町谷村女人講連中とあり、女人講で建てられたものです。ここも道標が彫られており、「北行右 よの 左 は祢くら 東 うら和 わらひ 西 あき加せ はやせ」と他の石塔とつなぎ巡礼路のように形作られます。

 

永い間、画像の場所に鎮座していましたが土地の所有者さんが上記の行動に出て、救出した方のお宅で保管されています。いつか元の場所に帰れるか、どこか安住の地が訪れることを願いながら碑は御霊抜されて休んでおられます。

 

 


町谷~2

 町谷第一地区(昔は町谷東といった)にお姿のしっかりした庚申塔があります。残念なことに開発で倒され割れてしまい補修されています。安永七戊戌(つちのえいぬ)1778年の造立で、上に月輪日輪・頭髪は竪に聳え頭に髑髏?・三眼・六椀に宝輪・三叉・剣・女人・弓・矢・脇に雄鶏・雌鶏・足に踏まれる俯せの邪鬼・三猿、という形です。

この碑は願主名と母○○、そして数名の名前があり、一族か家族で建てた碑のようです。

 

WEBで庚申信仰を探しますと、以下の文言が出てきます

道教では、人間の体内には三尸という3種類の悪い虫が棲み、人の睡眠中にその人の悪事をすべて天帝に報告に行くという。 そのため、三尸が活動するとされる庚申の日(60日に一度)の夜は、眠ってはならないとされ、庚申の日の夜は人々が集まって、徹夜で過ごすという「庚申待」の風習があった。

 庚申待は平安貴族の間に始まり、近世に入っては、近隣の庚申講の人々が集まって夜通し酒宴を行うという風習が民間にも広まった。

 

 


前述、中島~1で疑問を呈した与野領町谷について、調べてみました。

 

「与野領」がつく町谷の疑問

与野領町谷とは:(明治12年) 足立郡のうち埼玉県部分が北足立郡となり、北足立郡町谷村となるが、同郡内に同名の村があった為、与野領を冠称。旧足立郡町谷村。古くは高鼻壮に属し江戸期は足立郡与野領のうちであった。正保年間(1645~1648)に旗本である宮崎・牧野氏の相給地であった以外は幕府領で、村高は「田園簿」では221石(田158石畑63石)元禄郷帳では226石、天保郷帳では239石。

 

助郷は中山道浦和宿に出役(weblio辞書から)

 

助郷とは

初めは臨時で行われる人馬徴発であったが、参勤交代など交通需要の増大に連れ、助郷制度として恒常化した。

人馬提供の単位となった村も、これに課した夫役と同様に「助郷」と呼び、「定助郷」「代助郷」「宿付助郷」「増助郷」「加助郷」「当分助郷」などの名があった。

村が人馬を提供できない場合、金銭で代納することになっていた。助郷務めは早朝から夜間に及ぶため、徴発された村民(農民)は宿場での前泊や後泊を余儀なくされる場合が多いなど負担が重く、それにもかかわらず、法定の報酬はわずかであった。さらに、村民の中には、助郷務めをきっかけとして宿場女郎にのめり込み、身を持ち崩す者も現れるなど、間接的な被害も大きかった。このこともあり、次第に金銭代納が一般化していった。また、人足の要員としては非合法に浮浪者や無宿者などが充てられることもあった。

 

高鼻荘の疑問(図は大宮区高鼻町エリア)

 

「古くは高鼻荘に属し」の記述があり、高鼻荘とはどこかを探しても全く出てきません。ただひとつ「大宮区高鼻町」の地名があり私見として推測してみますと、大宮区高鼻町の図を抽出すると意味深な図が出てきました。高鼻は参道を含めた大宮氷川神社を囲んでいる広い地域です。「古くは高鼻荘に属し」とはこの地域を治めていた荘園の比定地はないかという思いに到達しました。

 

荘及び荘園:

奈良時代から戦国時代にかけて存在した中央貴族や寺社による私的大土地所有の形態。また、その私有地。個人が開墾したり、他人からの寄進により大きくなった。鎌倉末期以後、武士に侵害されて衰え、応仁の乱および太閤検地で消滅した

與野郷の地名

 

歴史的記述は不明であるが、「与野」の地名は鎌倉時代末の正和3年(1314)に成立した「融通念仏縁起絵巻」の正嘉疫癘の段に「武蔵国与野郷」とあるのが初見とされる。

 

〔 融通念佛縁起畫詞   下〕去正嘉のころ、疫癘おこりて人おほく病死にけり、其時武藏國與野郷に一人の名主あり、年來念佛信心の人にて、世間の疫癘をのがれんがために、家うちの老少をすヽめて、明日より別時念佛をはじむべきにて、番帳を書て道場におきけり、その夜の夢に異形の者ども如レ霞むらがりて行けるが、此家の門のうちへいらんとしけるを、あるじ出むかひて云、是は家・・・

 

番外編

 中浦和近くの4体の石碑の一つに青石塔婆らしきものがありましたが、路傍以外に寺や墓地まで足を延ばし、特に重圓寺内に「市内における初期庚申等の一つとして貴重」という「さいたま市教育委員会掲示」がありました。

 江戸期に編纂された「新編武蔵風土記稿」には「開山宥正嘉暦三年(1328年)に寂」という文を見つけたしたが、これを裏打ちするような青石塔婆がありました。埋められていて年号は不明ですが阿弥陀如来一尊の種子ははっきり分かります。青石があるということは1300年代にはこの墓地があったということになります。

 個人ごとですが、ここで見つけた青石塔婆は私の性と同じ墓地からでした。遠い親戚かっ・・・私はル-ツが一緒か、可否の基準にしているのは家紋です。同性で同族かということの調べの中で、上尾の畔吉と与野に同性一族がいますが、家紋がみな違います。ここで見つけた同性は与野の一族と同じでした。墓地の位置にも古い家系かの見極めもありまた、青石塔婆が祀られているというここの家系と与野の同族のル-ツは1300年代まで遡るのか、精度100%かは別として人間たった80幾何の命が、この場で700年の歴史に触れた、輪廻転生・生生世世・未来永劫・ 有難いことです。

 

 

  700年の人の歴史とは1世代25年とすると、28世代の先祖が700年の時を紡いできたのです。

 

有り得ないことですが、こんな計算があります。単純計算ですが親は二人いるので2^28=2^(10+10+8)=(2^10)・(2^10)・2^8)=1024×1024×256(電卓で)=2億6843万5456人

 

※ 青石を探す目標も加わって、中島の萬行寺には割れも余りない青石塔婆が残っておりました。お姿は阿弥陀三尊、主尊と脇侍の勢至菩薩の種子ははっきり分かります。観世音菩薩は剥離があり、年号も読み切れないのが残念でした。

 

庚申塔No                    年代       年代順位

西堀

No1=西堀 文化九壬申(みずのえさる)      1812年        10

No2=中浦和 延寶三年乙卯(きのとう       1675年       1

   天和三癸亥(みずのとい          1683年       2

     四丁卯(ひのとう)             1807年       9

No3=?鴻沼川

No4=ルブソアールマンション角 延享元甲子   1744年        4

No5=日向の石塔 宝暦七丁丑(ひのとうし)   1757年        5

道場

No1=南西境元禄五壬申(みずのえさる)     1692年        3

No2=?道場西 

中島

No1=3丁目12  享和元辛酉(かのと)       1801年         7

No2=中島萬行寺入口文政5壬午(みずのえうま) 1822年           12

No3=中島萬行寺  文化2乙丑          1805年        8

南元宿 

No1=土合小学校南  文化13丙子(ひのえね)  1816年         11

町谷

No1=町谷の庚申塔  万延元庚申(かのえさる)  1860年           13

No2=町谷東  安永七戊戌(つちのえいぬ)   1778年         6

 

鎌倉1185~1333室町~1576安土桃山~1607江戸~1868明治~1912大正~1926昭和~1986平成

  

あとがき 

 「土合あれこれ」の原稿をまとめるうち石碑石塔の調査を思い立ち、知識と語彙不足に悩みながらも「土合の庚申塔探訪記」なる文を仕上げるに至りました。

 しかし生来の性格なのか途中から疑問に疑問を嵩ね、身近な庚申塔という歴史調査から地域を跨ぎ時を飛び越え、迷路のような仕上がりになってしまいました。

 さて、石碑を調べるうち江戸鎖国時代において、農民という制限された生活の中でそれぞれの講が現世来世の安徳を願い祀り祈り、その中にささやかに楽しむ姿が碑という姿に変えていると感じてきました。また農民とは食糧生産という大きな役目故、様々に搾取されている姿が浮き出てきて複雑な想いも感じます。

 

 今旅人へお接待のある四国八十八ヵ所の遍路路こそ祈りの路ですがこの時代、庚申塔へ道標を彫るという発想は、誰かが全体像を考えたものでないことは年代も違い誰の指示でもないことは確かです。そこには村に入り出て行く一期一会かもしれない旅人へ思いやり、外から持ち込まれる知識と情報の停留所か、その返礼なのか、或いは土地に住む者は遠くを知る必要もなくとも旅する夢の道筋でしょうか。空白に彫った道標の文字は思いやりの心、数百年の時をつなげて創られた事実は閉鎖的な時代でも日本人農民の根本には、土合社協が掲げる「つちあいふれあいたすけあい」そのものの精神ではないか。この想いに触れ、この精神を柱とする「社協活動」、日本人も捨てたのじゃない、改めて感じました 

 

2018年1月吉日記

 


 西堀在住の小西様よりお住まいに地域にある、庚申塔、石仏の情報をいただきました。

こちらのコンテンツに掲載いたします。平成30年8月